暗い画面が多いけれど、なんともしれない「明るさ」がある。
だから、水木しげるの漫画が好きだったのだと思う。
かつて評論家の呉智英は、水木しげるを貫く思想を「朗らかなニヒリズム」と形容したことがある。私は、けっしてドグマチックにではないが、この思想に強い影響を受けてきた一人だ。少なくとも、その言葉の数々に何度も救われたという意味においては。 pic.twitter.com/dqqVUf7rHg
— AxTxS (@AxTxS) 2015, 11月 30
なるほど、「朗らかなニヒリズム」。このねずみ男のセリフ、妙に説得力がある。
すごい俗物だと思っていた親戚のおじさんが、あるとき突然、達観したように、「人間の真実の一側面」を、短い言葉で吐いたときみたいな新鮮な驚き。
呉智英氏は、水木氏のもとで、資料作成などの仕事を手伝ったことがあるそうだから、「人となり」は身近に感じてきたことだろう。
自分の主観的な想像だが、「妖怪話」というのは、ながい間の、民衆の営みのなかで、その元となる事実、事件があった結果の、「寓話化」の産物なのではないかと思っている。
恐れられ、忌み嫌われた人外の化け物は、虐げられた者の姿が、投影されているのではないか?
「虐げた側」の「罪悪感」や「鎮魂」など、複雑な想いが仮託され、結晶した姿そのものなのではないかと。
たとえば、桃太郎が退治した「鬼」。
そういう無法者の集団が存在し、殲滅された経緯が、あの民話となって結実されたのではないかと。
権力者でない、「上から目線」でない、庶民の感覚が、水木氏の作品に横溢していると、僕は思う。
僕らが認識させられている「歴史」とは、権力の単純な「移動」「交替」でしかないのかもしれない。
庶民の「目線」から語られる、この「国土」の来歴、有りよう、生活の実相を、「妖怪」という形姿を通して、水木氏は表現してこられたのだろう。
その「庶民」が、強制的に「戦地」へと動員され、他国を蹂躙し、命のやり取りをさせられる「業苦」を味合わされた。
間違いなく、水木氏は、そのひとりだった。
水木氏の描く戦記漫画は、理不尽な環境に強制的に叩きこまれた日本の「庶民」の姿が、ペーソス豊かに描かれていている。
間違いなく、悲惨である。
でもどこか、滑稽である。
「戦争」を描くことで、「庶民」を細かに描くことができた。
しかし、こんな悲しいことはない。
水木氏は、泉下で、そう嘆息しているのでは、あるまいか。
日本は今、その庶民感覚豊かな「妖怪」たちが、強大な力に押しつぶされ、呻吟させられている。
そして、邪悪、凶悪な「妖怪」どもが、権力を手にし、この国を、ふたたび亡ぼそうとしている。
「妖怪・アベ」をやっつける「鬼太郎」は、自分ら主権者国民であることを、肝に銘じたい。
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