2015年11月16日月曜日

百年の記憶


ずいぶん前に、録画していたNHKスペシャル「新・映像の世紀・第1集 百年の悲劇はここから始まった」を観た。
その翌日に、パリでの「同時テロ事件」をニュースで知り、なんだか、酢でも飲んだような気持に襲われた。
第一次大戦中、戦後、英米仏が行った、アラブをはじめとする中東諸民族への「裏切り」。
番組で、それを思い知らされた直後だったからだ。
事件の淵源は、100年前のここにあった。
当時、夥しく産出されはじめた原油を狙って、英米仏は、どういう仕打ちを、アラブの民に行ったのか。
 
 
「10年一昔」とよくいうが、100年はどのくらい昔なのか。
自分は、それほどの昔とは、思わない。
そのくらいの時間、生き抜いた人は、いくらでもいる。
そして記憶は、親から子へ、容易に受け継がれる
孫の世代へも、じゅうぶん、その受け継ぎは可能だろう。
「100年の記憶」など、決して「歴史」とはなり得ない。
いくらでもその鮮度を保ち、人間の群れのなかで、生々しく息づきつづけているのだ。
 
あのとき、「フランス帝国主義」の行った仕打ちが、「報い」となって、さまざまな過程を経て、現代のフランスの、若者たちの命を奪う。
テロは、人殺しは、むろん、許されるべきことではない。
それと同時に、そういう、そこに至ったことどもは、まずきっちりと総括し、自己批判しなければならないのではないか。
 

 
第一次大戦後、フランスが行ったアラブへの空爆。
「裏切り」の結果として行われたこの行為が、どれほどのアラブ人の「憤激」を呼び起こしただろう。
なのに、それを再び思い起こされる行為が、100年前と同じように、同じ国が行ったとすれば・・。
「怨み」は、確実に、子から孫へと伝承してゆく。
「テロは許されない」というのは正しい。
しかし、ただ単に、そう言い募るのみでは、「憎悪の連鎖」は確実に受け継がれてゆく。
ましてや、そういう「英米仏の論理」に、諸手をあげて賛意を表し、「テロとの戦い」に無批判に、軽薄に、合流を表明してゆくアベ首相。
この国の、自分やあなた、彼や彼女が、いかにこの首相を忌避していようとも、「テロリスト」はあくまで「同類」とみなし、その命を狙う。
「平和」という幻想が、そろそろ、ツギハギだらけの幕を下ろそうとする、「そのとき」が近づいてきた。
 
 
 
 

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