2015年11月13日金曜日

さびしい

眠りから醒めたときのように、頭のなかはもやがかかったようにぼんやりしている。
 私は炬燵のなかに足を突っ込み、背をまるめて、視線だけはテレビの画面に焦点を合わせている。
 若い頃はそれなりにスターで、少々、齢を重ねたあとは、すっかりテレビや映画から姿を見なくなっていた中年の女優が、のんびりと湯に浸かっている。
 傍らには、妻と娘がいて、テレビには眼もくれず、写真や結婚式場のパンフレットを間にして、ときおり声を立てて笑いながら、さかんに喋っている。
 
 娘の嫁ぐ日が、日に日に近づいてきていた。
 妻と娘は、毎日のように、結婚の準備のことについて話し、軽い興奮状態のなかにいた。
 式には誰を呼び、誰をはずしたらいいか。
 プライベート用の写真やビデオの撮影は、誰にまかせたらいいか。
 衣装はこんなものでいいか。髪形はもう少し、大人っぽいものにした方が良いのではないか。
 新婚旅行用のパスポートを取りにいかなければ。たしか期限は去年で切れている。

 私の存在など、そのときは忘れているようである。
 俺はすっかり、疎外されている。
 年甲斐もなく、そんなことを思い、しかし、口に出すわけにはいかず、私はせめて不機嫌そうに黙っているほかはなかった。
 夢中で喋っている娘の顔を横目で見ると、幼かった頃の面影が、その表情の端々に浮かんでいる。
 23歳になった今でも、たとえば好きなものを食べているとき、テレビに夢中になっているときなど、無心になったときの顔は、4,5歳の童女だった頃、そのままだった。
 私が家に帰ってくると、駆け寄ってきて、抱きついたこと。
 庭で遊んでいて、古釘を足で踏み抜き、背に負って、近くの病院へ駆け込んだこと。
 10年を隔てて生まれてきた弟を、まるでおもちゃのように可愛がったこと。
 雨に降られてびっしょりになって、拾ってきた捨て犬を抱き、「お願い、家で飼ってやって」と涙声で私に訴えかけたこと。
 そんな思い出のひとつひとつが胸をよぎり、脳裏をかすめて、いたたまれなくなってきた。

 「ちょっと、出てくる。」
 私は立ち上がって、妻と娘にそう告げた。
 玄関から外に出ると、娘があのとき拾ってきた犬が、嬉しそうに尻尾を振り、私に向かって「わん!」と吠えた。
 お前だけだよ、今、この家のなかで俺の存在を意識してくれているのは。
 私は苦笑しながら犬にそう言って、門扉を通り抜け、通りへ出た。

 どこへ行くというあてもなく、私は漂うように歩いていた。
 山を切り開いて出来た住宅地なので、すこし行くと、昼間でもほの暗い林の中に入ってしまう。
 林を抜けると、そこにはちょっとした公園があり、一様に、糞始末用のビニール袋と園芸用のスコップを持った人々が、犬を散歩させていた。
 俺も犬を連れてくれば良かったな。なぜ、そのことに気がつかなかったのだろう。
 そう思いながら、歩いてゆくと、ジャングルジムのある、すこし広くなったところで、ベンチにひとりの老婆が座って、遊んでる幾人かの子どもをおだやかな顔で眺めている。
 「やあ、またお会いしましたね」
 私はにこやかに笑って、その老婆に声をかけた。
 「ああ、これはこれは、おひさしぶりでございます。」老婆は深々と頭を下げ、歯のない口を開けて笑った。「また、こちらに来なされたか」
 この老婆は、私が昨年、大きな交通事故に遭った直後くらいから、この公園に姿をあらわしていて、いつもこのベンチになにをすることもなく、座っていた。
 最近の年寄りでも着ないような、縞目の入った灰色の和服をいつも着ており、昔の漫画に出てくるような、いかにもお婆さんといった風情である。
 私が横に腰をかけると、しばらく老婆は私の横顔を見つづけている。
 「やだなあ。顔になんか、ついてますか?」私は笑って聞いた。
 「いやね、寂しそうじゃなあ、と思いましてのう」老婆は答えた。
 「そうですか・・。たしかに、娘が近いうちに嫁ぐということはありますがね・・。」
 「ほうほう。それはおめでたいことで。父親は、たしかに寂しいじゃろうのう」
 「ただね・・・。なんか、それだけじゃない。娘が嫁ぐのなら、寂しさと同時にそれなりの喜びがあって、複雑な心境だと思うのですが、この寂しさはそういうものとは違う」
 「どんな寂しさなんじゃろう?」
 「なんかね、寂しいというより切ないというか、きゅっと胸が縮んで、身の置き所がないというような。問答無用の寂しさとでも、いいますか」
 「私にも覚えがありますて」老婆もまた、寂しげに笑った。「しかしな、そのうち慣れる。慣れてしもうてな、気持ちがこう、透き通ってくるもんです」
 「そんなものでしょうか?」
 「ときどきな、今のあんたのように、そうやって忘れる。それがなくなってきたとき、私のように透明になれるもんです」
 「どういうことなんでしょう?」
 「まあ、帰ってみなされ。そうしたら、思い出しましょう」
 そう言って、老婆はまた、声を立てずに笑った。

 帰ってみると、妻も娘も居間にはいなかった。
 奥の仏間の方で、りんをたたく音が聞こえる。
 行ってみると、ふたりが仏壇の前で手を合わせている。
 「お父さんに花嫁姿、見せてあげたかったね」
 妻が湿った声で言った。
 「私、親不孝だよね」
 娘の声も湿っている。
 「そんなことはないよ。私はおまえの花嫁姿もなにもかも、すべて見ることができる。安心しておくれ」
 すべてを思い出した私は、娘の背中に、必死で語りかけた。
 娘の背中が、ぴくっと動いたように見えた。
 「なんか、お父さんがね、私に語りかけてくれたような気がする。いいんだよって言ってくれたような」
 娘が妻に涙声でそう言うのを聞いて、私は暖かいものに包まれ、寂しさが和らいでいくのを感じていた。
 


 

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