2015年11月12日木曜日

はるか遠い昔の話

すこし風の強い、冬の夜だった。
車椅子を押す手が悲鳴をあげたいほど、冷たかった。
生まれて初めての経験・・・。
ひとりの「傷害」者の生命を預かっているという緊張が、僕の全身を支配している・・・。

かじかむ手からそのプレッシャーが伝わるのか、押されている彼女は、ときおり「大丈夫、大丈夫」と僕に呼びかけてくれる。
「町はすべて『健常者』のものなんだ・・」

そんな腹立たしさが、一方でつのってきて、自らを持てあます。
どうして歩道というやつは、こんなに段差が多いんだろう。
今までなにげなく歩いていた町の非情さに、今更ながら気づく自分が疎ましい。

小倉駅に着いた。
これから彼女と山口行きの列車に乗らなければならない。
改札を抜け、ホームに昇る階段まで行く。
そこで僕は途方に暮れた。恨めしい目で階段を見あげた。
「手伝ってもらうのよ、そのへんの人に」
彼女のその言葉を聞いて、僕はあたりを見渡した。

おりよく、体格のいい中年のおじさんが通りかかった。
僕はおじさんを呼びとめ、おそるおそる、一緒に彼女を上まで運んで欲しいと依頼した。

するとおじさんは、「よっしゃ」とこころよく頷いてくれた。

列車を待つ間、僕は彼女と邪馬台国の話をした。
歴史好きで話が合うところを気に入って、彼女自ら、帰るまでのエスコート役に僕を指名したのだ。
話がすこし途切れたとき、彼女がふっと呟いた。
「ねえ、結婚してくれと私が言ったら、あなたはどう答える?」
突然の、重い問いだった。
僕は答えることが出来ず、下を向いて絶句してしまった。
やがて、彼女の笑い声が響いた。
「冗談よ、冗談。ごめんね、悩ましちゃって」

彼女の訃報を聞いたのは、それから二年後のことだった。
自殺だった。
家から近くの川にかかる橋まで這いずっていって、欄干にロープを結わえて、首に巻き、そこからぶら下がったということだった。
ひとりの、支援者である男性に失恋したという。

その話を聞いたとき、僕は生まれたばかりの長男を抱いていた。
赤ん坊は親父の泣き顔を、不思議そうに見ていた。




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