2015年11月17日火曜日

権力による恣意的なプロパガンダに抗するものこそが放送法4条の精神である

14日は産経、15日は読売と、1ページ全面を使った、じつに気持ちの悪い「意見広告」が掲載された。
読者を睨み付けるかのような、大きな両眼のイラストの下に、<私達は、違法な報道を見逃しません>というタイトル。
「違法な報道?なんだ、それ」と思われた読者も多いだろう。
そして、その下に掲げられたのは、「放送法第4条」の文言だ。
 
放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の
放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
 一  公安及び善良な風俗を害しないこと。
 二  政治的に公平であること。
 三  報道は事実をまげないですること。
 四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論  点を明らかにすること
 
さらに下まで読むと、どうやらTBS「NEWS23」で、キャスターの毎日新聞特別編集委員・岸井成格氏が、9月の放送で「メディアとしても(安保法案の)廃止に向けて、声をずっと上げ続けるべきだ」と発言したことに対し、「放送法第4条違反」と言っているわけだ。

「違法」と表現されれば、まるで犯罪者のようだが、これは、本当に「違法」と言えるのか?
この、5千万円ともいわれる「全面広告費」を、二紙に掲載できるほどの潤沢な資金力を持つ「謎の団体」、「放送法遵守を求める視聴者の会」とやらが、その根拠として、水戸黄門の印籠のようにたかだかと掲げた「放送法」の精神とは、どうもそのようなものではなさそうだ。
 
実は放送法は、権力の介入を防ぐための法律なのです。
放送法の目的は第1条に書かれ、第2項は次のようになっています。
「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」
つまり、「表現の自由」を確保するためのもの。放送局が自らを律することで、権力の介入を防ぐ仕組みなのです。
この点に関しては、さらに第3条に明確化されています。
「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」
戦前の日本放送協会が権力の宣伝機関になっていたことへの反省を踏まえ、放送局が権力から独立したものになるような仕掛けにしたのです。
これが放送法です。(池上彰の新聞ななめ読み 2015・4・24
 
池上彰というジャーナリストの言説には、首を傾げることが多々、あるが、こと「放送法」にかんするこの認識だけは、評価すべきだと思う。
 
戦後、成立された多くの法律は、前時代のファシズム体制への反省から、「国民主権」の精神を色濃く取り入れていると思う。
宗教法人法、教育基本法など、おしなべて「権力の介入を許さない」という姿勢で貫かれているのだ。(教育基本法は、第一次アベ政権の改悪により、その基本を毀損されたが)
 
放送法も例外ではないだろう。
いかに、表現の自由というものを、権力から守っていくかという大前提があって、成立されたということを、押さえておかなければならない。
そもそもが、日本国憲法自体が、そういうものではないか。
権力の暴走を縛るための、立憲主義に貫かれた「硬性憲法」なのだ。
なのに、恰も、「国民の義務」を定めたものであることにしたい現政権と、この「放送法遵守を求める視聴者の会」の到達したい「着地点」は、同一のものであると断じることに、あまり「躊躇い」というものを感じない。
 
権力による恣意的なプロパガンダに抗するものこそが、放送法4条の精神である。
一条、三条で明記された「表現の自由厳守」の原則には敢えて言及せず、四条の文言のみ切り取って、いかにも「民主主義的」に「知る権利の侵害」などとほざく、この、おそらくは「官製?」と思われる団体。
 
なにが「知る権利」だ、片腹が痛いとは、このことだ。
それを言うのなら、われわれ主権者に知らされていない、さまざまな「不都合な真実」を、ひとつひとつ、全面広告で告発してみろよ。
「福島の現実」は、どうなってるのか、辺野古で反対住民をどうやって警察が弾圧してるのか、追及したら、どうなんだ。
なによりも、「知る権利」を云々するなら、まず渋谷のNHKをやり玉にあげろよ。
 
一般市民の団体を装った、官製団体が、これからも増えていきそうだ。
飲み下せない苦いものが、ずっと喉に引っかかっているような・・・そんな暗い時代が到来している。
 

 

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